最愛ではなくとも<第一話>

『――そうして、彼は彼女に対して愛を告げる言葉を紡いだ。』

と、そこまでテキストエディタに文字を打ち、先を繋げようとしたところで、つい現状を思い返して溜息を吐いてしまった。
何が悲しくて、私は失恋した直後の週末に恋愛小説なんぞ書いているんだろうか。
いや、単に仕事だからなんだが。
〆切もあるわけだし、予定が潰れたならその時間を仕事に回してしまえと思ったのは、他ならぬ一時間ほど前の自分。
しかし、そんな選択をしてしまった事を早くも後悔した。
せめて、今やっている仕事の内容を考えてからにすべきだったのだ。
明日、休みの人間はここぞとばかりに自分のパートナーと仲睦まじく過ごしているだろうことを考えると、リア充滅べの一言くらい呟きたくなってしまう。
なんと物悲しいことだろう。
私も本来の予定は……。いや、やめとこう。阿呆らしい。
やはり仕事はやめて、週末らしく休んでおくべきだな。
すっかり気を削がれてしまい、続きを書く気にはなれずにテキストエディタを閉じた。
お茶でも淹れて休憩しよう。
少し前にリンが買ってきた紅茶は香りが良くて美味しかった。
彼女はポットのお湯でお茶を淹れるのは手抜きだと怒るが、今夜、リンは帰って来ないから咎められることはない……はずだった。
お茶を飲み始めた頃に、微かに耳に届いたヒールが床を打つ音。
少しずつ音は確実に大きくなり、足音を立てている本人が確実に近づいてきていることを示している。
そうして、玄関の鍵を開ける音に続いて、聞こえたのはヒステリックな叫びだった。

「巨乳じゃなくて悪かったわね、こんちくしょー!!!」

……声の主が巨乳ではないのはよく知ってるが、別に悪くはない。
寧ろ、個人的には彼女がスレンダー体型であることに感謝しているほどだ。
しかし、深夜に差し掛かった時間帯での叫び声にはさすがに異論を唱えたい。
何しろここは集合住宅。人里離れた一軒家ならまだしも、両隣に住人がいる。
お茶の入ったカップをテーブルに置いて、玄関に向かった。
見事に仁王立ちで佇んでいた妻の肩をぽんぽんとあやすように叩く。

「……リン、リン。ご近所に迷惑が掛かりますから、大声を出さないで下さい。何より、私が貴女に巨乳でないのが悪いと言ったみたいじゃないですか。ご近所の奥様方に冷たい目で見られそうなことを叫ばないで下さい。……お帰りなさい、何がありました?」
「そうなったら、ちゃんと事情を説明してあげるわよっ! ただいま……って今夜は帰るつもりじゃなかったのに! ああ、もう悔しい……! 今日は目一杯楽しむつもりだったのに、いきなり『他に好きな人が出来た』とか言われて別れ話よ! Gカップの迫力美女にあの娘を盗られるなんて……!! ふかふかの豊満な胸じゃなくて悪かったわねっ」

口を挟む余裕もない勢いで、一気にリンが事情を説明してくれた。
なるほど、彼女も振られた結果の帰宅だったとは。
妙なところで似たもの夫婦だ。

「私は好きですが。貴女の胸は程よく手のひらに収まって、触れるのに丁度いい」
「それはどうもっ! アンタに言われるより、女の子に言われたかったけど! ……あら? そういえば、そういうアンタも今日はデートとか言ってなかった? 何でこの時間に家にいるのよ?」
「気付いて下さって嬉しいですよ。ええ、貴女と一緒です。彼に振られました」

いや、もう元彼になってしまうか。
そこで初めて、険しいままだったリンの表情が柔らかくなる。

「……理由は?」
「結婚してるのがばれまして」

思えば自業自得、ではあるのだが。
つい、何気なく彼との会話の中で『妻』という単語を出してしまったのは私だ。

「隠してたの? 陽(よう)、大抵の相手に言ってるんじゃなかった?」
「今回の彼には言ってなかったんですよ。既婚者に対しての嫌悪感が半端じゃなかったもので。結果、裏目に出てしまいましたが」

数時間前の彼とのやりとりを思い出すとげんなりする。
裏切り者だの、汚らわしいだの、よくぞ言えたものだ。
つい先日まで、その汚らわしい裏切り者で感じてくれていたのは誰だというのか。
遠慮なく言葉をぶつけられたおかげで、あっさり相手に対して醒められたのは幸いだったけれど。

「それは……ご愁傷様」
「お互いにね。…………せっかくです。振られたもの同士、久しぶりに夫婦らしいことをしませんか?」
「え……あ、ちょ…………ん……!」

漆黒の長いストレートの髪を後ろに払い、現れた白い首筋に口付けを落とす。
ふわりと漂った香水の香りは柑橘系。リンに合った香りだ。
私の妻は自分に似合うものを見つけるのが上手い。

「どうせ、下着に気合をいれていたんでしょう? 無駄にするのも勿体無いじゃありませんか」
「無駄……ってアンタね。一言多…………んっ、珍しく、積極的じゃ……ない、の……」
「私も今日はヤル気満々だったのを中断されたもので。そりゃ、発情だってするってものです。貴女だってそうでしょう? ……ああ、綺麗な色ですね。よく似合っている」

襟元の釦を外して、襟元から覗いた品のいい水色の下着。
あしらわれたレースは見ただけで上質のものだと解る。多分初めてみるものだろう。
男相手ではあまり下着に凝るというのはないから、これは妻を相手にした時のみの密かな楽しみだ。
私は女は妻しか抱けないから。そして妻も女はさておき、男は私しか知らない。

「…………あの娘の好きな色だったのよ。せっかく新調したのに」
「残念でしたね」
「いいわよ。……アンタがその分楽しんでくれるなら」
「ええ。そうさせて貰います。で、貴女もちゃんと楽しませてあげますよ、リン」
「ん…………」

こうやって抱きしめると、いつもは強気なリンがしおらしくなるのが結構好きだ。
こんな瞬間には自分たちが普通の男女のような錯覚を覚える。
実際はたまにしかこういうことをしないからこそ、お互いに奇妙な興奮に包まれるのだとわかってはいる。
何しろ、元来は両方とも発情する相手は同性なのだ。
しかも、私は普段はネコ。妻は普段はタチ。
夫婦で交わるときだけそれが逆転する。
身体の作りの問題もあったが、悪い気分はしない。

大学を卒業直後に結婚して早三年。
私、長谷川陽一と、妻、長谷川美鈴はそんな夫婦だった。


→第二話へ続く

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